北方宿
北方宿は長崎街道塚崎道と塩田道が分岐する交通の要所として栄えました。また、石炭の産出も古くから行われ、寛延元年(1748年)にはすでに行われていたようです。
これらの石炭は炭質も良好で、幕末の佐賀藩の近代化に一役買ったそうです。
・土井家住宅
江戸期に商家として建てられ、その後明治に入ってからは農家として使用されました。現在は建設当時の姿に復元されています。
・焼米龍王池
寛政12年(1800年)に、白石平野の灌漑のために造られました。白石平野は慢性的に水不足に悩み、現在の嘉瀬川ダム建設に至ります。
・追分観音堂
写真左の方に向かうと高橋宿へと至る塚崎道、手前の方に向かうと鳴瀬宿へと至る塩田道です。
当初は塩田道を行く旅人が多かったのですが、塩田川が増水して渡河できない場合が多く、次第に塚崎道が使われるようになりました。
写真は旅人が旅の安全を願い、休息を取った観音堂です。
・本陣
大名や長崎奉行が宿泊する本陣が、北方宿にも設けられていました。現在は民家として使用されています。
高橋宿
高橋宿は六角川の水運による物資の集散地として栄え、『壱(市)は高橋、弐(荷)は牛津』と歌われるほどでした(*)。
現在も街道沿いには歴史を感じさせる町並みが残っており、当時の面影を偲ぶことができます。
(*) 『高橋』は佐賀城下の高橋とする説もあり、真相は不明です。
高橋宿の街並み
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