牛津宿

 牛津はかつて牛津川の水運によって栄え、「壱(市)は高橋、弐(荷)は牛津」と歌われるほどでした。
 呉服の販売で財を成した田中丸善蔵は、レンガ造りの倉庫を建設。現在では牛津赤レンガ館として、様々なイベントに用いられています。




・牛津赤レンガ館
それにしても小城市は牛津駅を「レンガ館風」にして観光に力を入れているようなそぶりを見せるくせに、駅からレンガ館への道案内の看板は何もありませんでした。





・牛津会館
田中丸善蔵は玉屋デパートの創始者としても知られています。その善蔵の居宅は牛津会館として、現在は地元の方々に利用されています。






現在の牛津川。当時を偲ばせるものはありません。鉄道が佐賀にも開通すると、やがて牛津川の水運は廃れていきました。





 小田宿

 小田宿はかつては多良へと向かう浜道と武雄へと向かう彼杵道が分岐する、交通の要所として栄えました。昭和の時代に入ってからも杵島炭鉱の恩恵を受け、
 小 田商店街には映画館があったといいます。また、江北町の中心駅である肥前山口駅は特急『かもめ・みどり』が連結・切離しする、鉄道上の要衝でもありまし た。

 しかし時代が下るにつれ炭鉱は閉山。かもめとみどりの連結もなくなり、一部のかもめは肥前山口を通過します。今となっては次代に取り残されたような宿 場町の面影が残るのみです。





・追分
写真左の方向に向かうと、長崎街道多良道(浜道)。奥のほうへ向かうと彼杵道。浜道は佐賀藩主が自国領だけを通って長崎へ向かう道でした。
このサイトでは彼杵道のほうを取り扱っていきます。






白壁の家。かつて商家を営まれていたそうです。





・小田の大楠
奈良時代、行基がこの楠に馬頭観音像を彫ったという言い伝えがあります。その観音像はシーボルトもスケッチしていたとのこと。
その後度重なる火災と風化により現在観音像は見られなくなっていますが、接ぎ木によって(?)現在でも葉を茂らせ、町の天然記念物に指定されています。





・横辺代官所跡
かつてこのあたりは佐賀本藩の直轄領であり、代官が派遣され統治にあたりました。現在は楠の巨木が残るのみで、この木は『佐賀の名木』に選ばれています。






 北方宿
 
北方宿は長崎街道塚崎道と塩田道が分岐する交通の要所として栄えました。また、石炭の産出も古くから行われ、寛延元年(1748年)にはすでに行われていたようです。
  これらの石炭は炭質も良好で、幕末の佐賀藩の近代化に一役買ったそうです。


・土井家住宅
江戸期に商家として建てられ、その後明治に入ってからは農家として使用されました。現在は建設当時の姿に復元されています。




・焼米龍王池
寛政12年(1800年)に、白石平野の灌漑のために造られました。白石平野は慢性的に水不足に悩み、現在の嘉瀬川ダム建設に至ります。




・追分観音堂
写真左の方に向かうと高橋宿へと至る塚崎道、手前の方に向かうと鳴瀬宿へと至る塩田道です。
当初は塩田道を行く旅人が多かったのですが、塩田川が増水して渡河できない場合が多く、次第に塚崎道が使われるようになりました。
写真は旅人が旅の安全を願い、休息を取った観音堂です。





・本陣
大名や長崎奉行が宿泊する本陣が、北方宿にも設けられていました。現在は民家として使用されています。



 高橋宿

 高橋宿は六角川の水運による物資の集散地として栄え、『壱(市)は高橋、弐(荷)は牛津』と歌われるほどでした(*)。
 現在も街道沿いには歴史を感じさせる町並みが残っており、当時の面影を偲ぶことができます。

 (*) 『高橋』は佐賀城下の高橋とする説もあり、真相は不明です。








高橋宿の街並み











・新堀津跡
かつての船着場の跡です。当時は様々な物資を載せた船が行き交ったことでしょう。



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