塚崎宿

武雄は以前、塚崎と呼ばれていて武雄という地名が定着したのは明治以降のことです。武雄鍋島家第28代鍋島茂義は積極的に蘭学を導入し、
西洋式砲術の導入、理化学実験、種痘の実施などに力を注ぎました。やがてこの動きは佐賀本藩を刺激し、明治維新を陰で支えた佐賀藩の科学力を生み出します。




塚崎宿の街並み







・宮野町公民館
トイレもあり、ここで休息することが出来ます。





・武雄温泉楼門
現在の楼門は大正時代に建てられたもので、江戸時代には武雄藩主の茶屋があり本陣として使用されていました。
武雄鍋島家は佐賀鍋島家の親類で、温泉の入湯料は貴重な収入源だったそうです。
現在では一般人でも殿様湯に入ることが出来ます(時間貸切制)。




・鍵型の道
塚崎宿には西と東に鍵型(クランク状)に曲がった道があります。これは戦時の際に防戦に有利なため、と言われています。






新町の街並み





・中村涼庵旧宅
武雄の医師中村涼庵はシーボルトに最新の医学を学び、武雄に戻ってから日本で最初の種痘を実施しました。
佐賀藩主鍋島直正も実子直大(なおひろ)に種痘を施しており、種痘の普及に努めました。


 

・長崎街道旧道
塚崎宿から嬉野宿へと向かう旧道は一部淵の尾ダムの底に沈んでいますが、そのまま残っている部分もあります。徒歩かMTBであれば通行できます。



  嬉野宿

嬉野宿では北方で別れた塚崎道と塩田道が合流します。嬉野は現在でも温泉と茶の栽培が盛んですが、それらは古くから行われてきたようです。



・公衆浴場 シーボルトの湯
かつて嬉野は蓮池支藩の領地(飛び地)であり、藩営の浴場が設けられていました。
その後大正12年、ゴシック風建築の浴場が建てられ嬉野のシンボルとなってきましたが、平成17年の地震で倒壊の恐れが出たため止むを得ず解体。
現在は以前の建物を髣髴させる公衆浴場『シーボルトの湯』が建設されています。




・構口跡
嬉野宿には東と西に構口が設けられていました。平時は容易に通ることが出来ましたが、有事の際は防戦の要となるように造られていたようです。





・轟の滝
嬉野宿を出て俵坂番所へと向かうと、轟の滝に差し掛かります。
平地に存在する滝は珍しく、海面が隆起して出来たそうです。
写真の3つの川が合流して塩田川になります。





藩境へ向かうにしたがって、次第に山里深くへと入っていきます。
私が訪れた時はまさに秋たけなわでした。




・俵坂番所跡
公式な検問所で幕府が設けたものを関所、藩が設けたものを番所といいます。
隣の大村藩領には元キリシタンが多かったことから、特にキリシタンの取締りには厳しかったそうです。
しかし役人に『袖の下』を渡すことで番所を通過する番所破りも、半ば公然に行われていたといいます。



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